2010年08月30日
「東京」と江藤新平
日本の首都は東京ですが、明治維新時にはひょっとしたら「大阪が首都」になっていた可能性があります。
江藤新平は、「東京(江戸から改名)に首都を移す」ということに関しても関与をしていますが、国土交通省のWebサイトには明治維新での「東京遷都」のことが説明されています。
京都大学の佐々木克教授がこれらのことについて書いています。
http://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/iten/onlinelecture/lec16.html
上記URLから一部転載
江戸への遷都を主張したのは幕臣の前島密です。彼は大久保利通の大坂遷都論を聞いて、そうではなくて江戸の方がいいという意見を述べています。これは全体として首都はどういうものであるべきか、都市景観の問題や将来の交通の問題、日本全体の中での位置関係、運輸・港湾の便なども考慮した非常にまとまったものとなっています。おもしろいのは、当時の江戸は世界の最大の都市であったわけですが、フランス革命があった頃のパリが 60万人ですから、その倍もある世界最大の都市、そのような自負もあるわけです。その都市が遷都によって荒れるにまかせてしまうのはよくないという考え方をしています。
このほかに江藤新平の東京遷都論といわれているものがあります。江藤新平が有名人なのでそのようにいわれていますが、草稿は大木喬任が書いたものです。ここで初めて「東京」という言葉が出てきます。「江戸城は急速に東京と被定」と書かれていますが、これがミソなのです。よく「江戸」という地名を「東京」という地名に変えたといわれますが、これは間違いです。この文章が東京遷都の実体をよく表しています。江戸城を中心とした江戸という空間を「東の京と定める」ということで、改めるのではないわけです。そして「東西両京」という表現に見られるように、西と東の都の両都論なのです。この段階ではまだ遷都論ではないのです。そしてこの文書の中に「東下(とうか)」という言葉が出てきますが、幕末の頃からこの言葉が盛んに使われるようになってきます。明らかに関東、江戸を下に見ているのです。その下に見ている江戸を東の京に格上げするということなのです。西の京と東の京の間を天皇が動くという形を想定しているのです。[転載了]
江藤新平は、「東京(江戸から改名)に首都を移す」ということに関しても関与をしていますが、国土交通省のWebサイトには明治維新での「東京遷都」のことが説明されています。
京都大学の佐々木克教授がこれらのことについて書いています。
http://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/iten/onlinelecture/lec16.html
上記URLから一部転載
江戸への遷都を主張したのは幕臣の前島密です。彼は大久保利通の大坂遷都論を聞いて、そうではなくて江戸の方がいいという意見を述べています。これは全体として首都はどういうものであるべきか、都市景観の問題や将来の交通の問題、日本全体の中での位置関係、運輸・港湾の便なども考慮した非常にまとまったものとなっています。おもしろいのは、当時の江戸は世界の最大の都市であったわけですが、フランス革命があった頃のパリが 60万人ですから、その倍もある世界最大の都市、そのような自負もあるわけです。その都市が遷都によって荒れるにまかせてしまうのはよくないという考え方をしています。
このほかに江藤新平の東京遷都論といわれているものがあります。江藤新平が有名人なのでそのようにいわれていますが、草稿は大木喬任が書いたものです。ここで初めて「東京」という言葉が出てきます。「江戸城は急速に東京と被定」と書かれていますが、これがミソなのです。よく「江戸」という地名を「東京」という地名に変えたといわれますが、これは間違いです。この文章が東京遷都の実体をよく表しています。江戸城を中心とした江戸という空間を「東の京と定める」ということで、改めるのではないわけです。そして「東西両京」という表現に見られるように、西と東の都の両都論なのです。この段階ではまだ遷都論ではないのです。そしてこの文書の中に「東下(とうか)」という言葉が出てきますが、幕末の頃からこの言葉が盛んに使われるようになってきます。明らかに関東、江戸を下に見ているのです。その下に見ている江戸を東の京に格上げするということなのです。西の京と東の京の間を天皇が動くという形を想定しているのです。[転載了]