2010年10月06日

佐賀新聞の記事に

今日(10月6日)の佐賀新聞の二社面に、『長崎警備緊迫「攘夷」で混乱』という記事が掲載されています。
佐賀藩下級藩士書簡つづる…というものですが、佐賀大学の伊藤准教授が解読をしている幕末の文書、書簡の中からこうしたものを見つけたようです。

小生のお気楽プロジェクトは、江藤新平をNHK大河ドラマの主人公にするというものですが、上記の記事にある下級武士の中で『手明鑓(てあけやり)』というのが出てきます。
実は、江藤新平も手明鑓の家に生まれています。

小生も佐賀新聞の記事を読みながら、思わず江藤のことを思いながら「攘夷」に関して考えていました。

当時の日本は欧米列強の圧倒的な“技術力”の前に、大変な緊張状態の中で生き抜いてきました。
その中で、日本という国をどう守るか…ということは、安寧の江戸時代から一気に現実の厳しさに引き込んできたのだと思います。

佐賀藩においては、「義祭同盟」という独特の価値観の中で、攘夷論も育ってきた背景もあり、幕末の流れを感じています。



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Posted by タピタピ  at 19:45 │Comments(2)佐賀の偉人

この記事へのコメント
先日城内の招魂場を初めて尋ねました。郷土史に興味を持つまでは、ここにこのような場所があることを全く知りませんでした。
明治七年戦没者碑には、伊東鼎之介の名が記されています。安堵しました。

深堀(6000石)は藩ではなく、佐賀藩の家老ですので当然連絡がいきますよね。 杞憂に終わりました。

少年隊を指揮しました大塚左源太の名も確認しました。

私こと和左衛門の身分が不確実でしたが、お寺回りをしていて、はたと気づいたのですが、家老倉町鍋島家の家来だったと思われます。
今はこの事を調べています。
Posted by 和左衛門和左衛門 at 2010年10月07日 13:25
この場で質問するのは不適当と思いますが、坊所鍋島家について質問します。上峰町に佐渡神社という坊所鍋島家に関係する神社があるそうですが、小生は二度現地を歩いたのですが、さっぱり見つかりません。良かったらおしえて下さい。

佐賀市 高崎洋三
Posted by 在来知在来知 at 2015年12月30日 11:19
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