2010年08月27日
シナリオ研究 プロジェクトX その3
『プロジェクトX』の~世界規格を作った~VHS・執念の逆転劇~のすごさについて、以下に番組の流れを書きながら説明していきます。
オープニング イントロ
VHSの製造風景 世界中で7億5千万台のVHSが普及している「世界標準」である
オープニング プロジェクトX定番のコンピュータグラフィック映像に、本編のストーリーを予感させる写真を載せる。これに効果的なテロップが…。中島みゆきさんの『地上の星』がバックに流れる…。
2:38~ スタジオでの紹介 司会の国井さんと久保ジュンとの掛け合い。どうしてVHSが「世界標準」になったのかをネタを振る(⇒視聴者の興味をひく)
説明のVTRがスタート
今から30年前、神奈川区の工場の近くに『きしや』という居酒屋があった。そこに毎日通うサラリーマンがいた。
これが本作品の主人公「高野鎮雄さん、47歳」
この高野さんが、当時の日本ビクターの中では赤字部門であったVTR事業部を任された。
この間の説明は「写真」を中心。
6:24~ 当時のことを知っている曲尾定二氏のインタビュー映像。この部署のことを語る。
同時に高野鎮雄さんの経歴を説明。昭和21年に入社など…。
さらには、当時の家電業界の競争の激しさを当時のニュース映像を挿入して効果的に説明。
7:31~ 当時、映像関係でトップクラスにあったSONYの説明。会社外観の映像のみ
8:15~ 日本ビクターの外観の映像。これに当時主力だった「業務用VTR」の映像
8:46~ 写真で構成。技術者たちの歴史。高野さんが敬愛する「ブラウン管の父・高柳健次郎氏」の話
9:45~ 50人の技術者が高野さんの部署になった。その中で高野さんは『家庭用VTR機器の開発』という極秘のプロジェクトを発案。このために白石さんに相談した。
白石さんのインタビュー映像。
白石さんは、若手の技術者の中から2人を選ぶ。梅田弘幸さん(当時24歳)、太田善彦さん(当時29歳)の二人。この時、2の写真はなんと『入社時の社員記録の書類』を写した。
この感覚が素晴らしい!! これはちょっとできない演出かと小生も関心。
梅田さん、大田さんのインタビュー映像
12:41~ 司会2人にノンフィクション作家の佐藤正明氏が加わって、当時の家電業界の勢力地図を佐藤氏が説明。『日本ビクターはSONYにだいぶ遅れていた…』ことを述べる。
14:21~ 再現VTR。当時の経営陣は技術者のリストラを高野さんに命じていた。高野さんが事業部長となって3年。毎月5,000万円の赤字があり、本社への借金は30億円に上ったなどの情報を視聴者に伝える。
そこで、高野さんが採った策は経理課長の大曽根収を本プロジェクトに引きこんだ。そして本社に対して『今後の見込みなどの事業計画を立てて、本社を説得するよう』頼んだ。
17:49~ 高野さんは本社の目をごまかすために、VTR事業部内に営業部隊を立ち上げた。このメンバーの一人上野良弘さんのインタビュー映像。
再現VTR。
当時、営業をまったくやったことのない技術者たちが、営業をした結果、市場のニーズが『家庭用VTRが世に出たらスポーツや映画などを録画したいために、録画時間は2時間は必要…』ということを掴んだ。
そうした中、SONY社が始めて「家庭用VTR機」βマックスを発売。昭和49年12月。録画時間は1時間だった。
SONY社の発表を聞き、高野さんは落ち込んだが、技術者たちのモチベーションが逆に上がった。
23:03~ 高野さんの自宅の映像。ここで高野さんのエピソード。このプロジェクトが失敗したら自分の部下はリストラされる。リストラの際お詫びの気持ちを込めて盆栽を贈ろうと思い、自宅の庭で盆栽を育てていた。
スタジオへ。当時の経理課長である大曽根収が登場。司会2人とトーク。
大曽根さんは高野さんの人となりを語る。『部下を大切にする人だった…』
また、資料として当時の「業務日誌」を司会が披露した。この中で高野さんが『迷いはやる気の証拠…』なとど綴ったメモを紹介した。
27:01~ 昭和50年8月。高野さんたちは「試作機」を完成させた。βマックスの販売から3カ月が経っていた。
映像の中で、同試作機の高い技術①DL-FM方式(大田さんの発明)②パラレルなんとか(梅田さんのインタビュー)などを交えて説明。
高野さんは、この試作機を一人の人物に見てもらうことにした。
その人物とは…。松下幸之助氏(当時80歳)。日本ビクターの親会社の創設者である。この時の映像は残っていないが写真が多数残っていた。これをベースに、再現VTRを進める。
松下幸之助が言った『βマックスは100点だが、このVHSは150点だ…』
31:37~ この当時、高野さんが松下氏に認められた喜びを妻に語っており、妻の智恵子さんのインタビュー映像。
32:16~ 高野さんは、試作機をただで他のメーカーに貸し出した。それはこの技術力を他のメーカーと連携することによって「標準化」させたかったから。
この説明に、宮木さん(当時日立)、糸賀さん(三菱電機)、辻さん(シャープ)の3名のインタビュー映像。
昭和51年9月9日。日本ビクターはVHS1号機を発売した。この中にはシャープや三菱電機の技術も含まれていた。
高野さんのこうしたオープンなマインドは海外へもこの技術を公開した。
『こうして高野は270人全員を守った』のナレーション
37:09~ スタジオへ 再び、司会2名、佐藤さん(作家)とゲストの大曽根さん(元経理課長)とのトーク。
39:26~ 最後のVTR ~エンディングの物語~
高野さんはその10年後、昭和61年、日本ビクターの副社長に就任した。この映像は主に写真を活用。たまに横浜工場を訪問して社員と談笑した、社員の名前を全員覚えていたなどのエピソードを紹介。
実写映像が残っており、高野さんが退任した時のパーティ映像。その中で高野さんは『夢中になってください…』と挨拶をしているシーン。この映像は同社の関係者が撮影したと見られる。
そして、ナレーション。
『高野はこの他人から2年後、平成4年1月21日ガンでこの世を去った。高野を乗せた棺が横浜工場を回ると、社員全員で見送った…』
この実写映像は同社の関係者が撮影したと思われる。これを約30秒間使っていた。最後に、【高野さんありがとう】の横断幕が…。
以上が本番組の構成なのですが、小生がド肝を抜かれたのは、この後のシーン…。
41:51~ 高野さんの庭の映像。妻の智恵子さんが盆栽に水をやっているシーン。
ナレーション『自分の部下がリストラされた時のために育てた盆栽はまだ庭に残っている(←リストラされた社員はいないという意味)。妻の智恵子さんが接木をしてその枝は今も成長している…』。
まぁ、このような形のナレーションでした。
通常のディレクターの感性であれば、衝撃の実写映像=棺が横浜工場を回るシーンで締めたいところでしょうが、それだと、この作品自体が、『死』というネガティブなイメージで終わってしまう。
そこで、最後の盆栽のシーンです。社員がリストラされる際には贈ろうと「育てていた盆栽」が、今も、接木をして成長している…というポジティブな面、さらには、そのマインドが脈々と受け継がれているということを、『盆栽』で表現した…。
素晴らしい!!!
素晴らしい!!!
素晴らしい!!!
この構成はうますぎるというか、芸術だなぁ~と、小生は感心したのでした。
オープニング イントロ
VHSの製造風景 世界中で7億5千万台のVHSが普及している「世界標準」である
オープニング プロジェクトX定番のコンピュータグラフィック映像に、本編のストーリーを予感させる写真を載せる。これに効果的なテロップが…。中島みゆきさんの『地上の星』がバックに流れる…。
2:38~ スタジオでの紹介 司会の国井さんと久保ジュンとの掛け合い。どうしてVHSが「世界標準」になったのかをネタを振る(⇒視聴者の興味をひく)
説明のVTRがスタート
今から30年前、神奈川区の工場の近くに『きしや』という居酒屋があった。そこに毎日通うサラリーマンがいた。
これが本作品の主人公「高野鎮雄さん、47歳」
この高野さんが、当時の日本ビクターの中では赤字部門であったVTR事業部を任された。
この間の説明は「写真」を中心。
6:24~ 当時のことを知っている曲尾定二氏のインタビュー映像。この部署のことを語る。
同時に高野鎮雄さんの経歴を説明。昭和21年に入社など…。
さらには、当時の家電業界の競争の激しさを当時のニュース映像を挿入して効果的に説明。
7:31~ 当時、映像関係でトップクラスにあったSONYの説明。会社外観の映像のみ
8:15~ 日本ビクターの外観の映像。これに当時主力だった「業務用VTR」の映像
8:46~ 写真で構成。技術者たちの歴史。高野さんが敬愛する「ブラウン管の父・高柳健次郎氏」の話
9:45~ 50人の技術者が高野さんの部署になった。その中で高野さんは『家庭用VTR機器の開発』という極秘のプロジェクトを発案。このために白石さんに相談した。
白石さんのインタビュー映像。
白石さんは、若手の技術者の中から2人を選ぶ。梅田弘幸さん(当時24歳)、太田善彦さん(当時29歳)の二人。この時、2の写真はなんと『入社時の社員記録の書類』を写した。
この感覚が素晴らしい!! これはちょっとできない演出かと小生も関心。
梅田さん、大田さんのインタビュー映像
12:41~ 司会2人にノンフィクション作家の佐藤正明氏が加わって、当時の家電業界の勢力地図を佐藤氏が説明。『日本ビクターはSONYにだいぶ遅れていた…』ことを述べる。
14:21~ 再現VTR。当時の経営陣は技術者のリストラを高野さんに命じていた。高野さんが事業部長となって3年。毎月5,000万円の赤字があり、本社への借金は30億円に上ったなどの情報を視聴者に伝える。
そこで、高野さんが採った策は経理課長の大曽根収を本プロジェクトに引きこんだ。そして本社に対して『今後の見込みなどの事業計画を立てて、本社を説得するよう』頼んだ。
17:49~ 高野さんは本社の目をごまかすために、VTR事業部内に営業部隊を立ち上げた。このメンバーの一人上野良弘さんのインタビュー映像。
再現VTR。
当時、営業をまったくやったことのない技術者たちが、営業をした結果、市場のニーズが『家庭用VTRが世に出たらスポーツや映画などを録画したいために、録画時間は2時間は必要…』ということを掴んだ。
そうした中、SONY社が始めて「家庭用VTR機」βマックスを発売。昭和49年12月。録画時間は1時間だった。
SONY社の発表を聞き、高野さんは落ち込んだが、技術者たちのモチベーションが逆に上がった。
23:03~ 高野さんの自宅の映像。ここで高野さんのエピソード。このプロジェクトが失敗したら自分の部下はリストラされる。リストラの際お詫びの気持ちを込めて盆栽を贈ろうと思い、自宅の庭で盆栽を育てていた。
スタジオへ。当時の経理課長である大曽根収が登場。司会2人とトーク。
大曽根さんは高野さんの人となりを語る。『部下を大切にする人だった…』
また、資料として当時の「業務日誌」を司会が披露した。この中で高野さんが『迷いはやる気の証拠…』なとど綴ったメモを紹介した。
27:01~ 昭和50年8月。高野さんたちは「試作機」を完成させた。βマックスの販売から3カ月が経っていた。
映像の中で、同試作機の高い技術①DL-FM方式(大田さんの発明)②パラレルなんとか(梅田さんのインタビュー)などを交えて説明。
高野さんは、この試作機を一人の人物に見てもらうことにした。
その人物とは…。松下幸之助氏(当時80歳)。日本ビクターの親会社の創設者である。この時の映像は残っていないが写真が多数残っていた。これをベースに、再現VTRを進める。
松下幸之助が言った『βマックスは100点だが、このVHSは150点だ…』
31:37~ この当時、高野さんが松下氏に認められた喜びを妻に語っており、妻の智恵子さんのインタビュー映像。
32:16~ 高野さんは、試作機をただで他のメーカーに貸し出した。それはこの技術力を他のメーカーと連携することによって「標準化」させたかったから。
この説明に、宮木さん(当時日立)、糸賀さん(三菱電機)、辻さん(シャープ)の3名のインタビュー映像。
昭和51年9月9日。日本ビクターはVHS1号機を発売した。この中にはシャープや三菱電機の技術も含まれていた。
高野さんのこうしたオープンなマインドは海外へもこの技術を公開した。
『こうして高野は270人全員を守った』のナレーション
37:09~ スタジオへ 再び、司会2名、佐藤さん(作家)とゲストの大曽根さん(元経理課長)とのトーク。
39:26~ 最後のVTR ~エンディングの物語~
高野さんはその10年後、昭和61年、日本ビクターの副社長に就任した。この映像は主に写真を活用。たまに横浜工場を訪問して社員と談笑した、社員の名前を全員覚えていたなどのエピソードを紹介。
実写映像が残っており、高野さんが退任した時のパーティ映像。その中で高野さんは『夢中になってください…』と挨拶をしているシーン。この映像は同社の関係者が撮影したと見られる。
そして、ナレーション。
『高野はこの他人から2年後、平成4年1月21日ガンでこの世を去った。高野を乗せた棺が横浜工場を回ると、社員全員で見送った…』
この実写映像は同社の関係者が撮影したと思われる。これを約30秒間使っていた。最後に、【高野さんありがとう】の横断幕が…。
以上が本番組の構成なのですが、小生がド肝を抜かれたのは、この後のシーン…。
41:51~ 高野さんの庭の映像。妻の智恵子さんが盆栽に水をやっているシーン。
ナレーション『自分の部下がリストラされた時のために育てた盆栽はまだ庭に残っている(←リストラされた社員はいないという意味)。妻の智恵子さんが接木をしてその枝は今も成長している…』。
まぁ、このような形のナレーションでした。
通常のディレクターの感性であれば、衝撃の実写映像=棺が横浜工場を回るシーンで締めたいところでしょうが、それだと、この作品自体が、『死』というネガティブなイメージで終わってしまう。
そこで、最後の盆栽のシーンです。社員がリストラされる際には贈ろうと「育てていた盆栽」が、今も、接木をして成長している…というポジティブな面、さらには、そのマインドが脈々と受け継がれているということを、『盆栽』で表現した…。
素晴らしい!!!
素晴らしい!!!
素晴らしい!!!
この構成はうますぎるというか、芸術だなぁ~と、小生は感心したのでした。