2010年09月15日

政治家の生と死

政治の世界ではよく「命を懸けて」という表現がされます。
平和な現代においては、あまり実感がない言葉のように聞こえますが、元来政治というのは、政治家同士が“殺し合い”をするほどの権力闘争でした。

政治家はそれだけ重要な判断を任されますし、政治家の決断が人の命を奪うことさえあります。
戦争を決断するのも政治家ですし、この判断のいかんによっては多くの人の運命を決めてしまいます。

ただあえて言えば、現代とかつての時代(※限定しないが)の違いは、政治を取り巻く環境や状況が異なっているだけであって、“本質”はなんら変わらないと思っています。

江藤新平の政敵であった大久保利通は日記の中で、佐賀の乱(佐賀戦争)の裁判を受けた際の江藤の様子を『笑止なり…』と記しています。
これは、小生の感覚からすれば異様です。
というのも、この裁判において江藤は死罪は免れない状況になっており、その状況を作り出したのは大久保本人です。

小生の感覚からすれば、『いかに政敵と言えども死に行く人への惻隠の情があってもいい…』と思うからです。
大久保は恐らく、自分の日記が後世の人に読まれて“歴史の評価”の題材になることを見越して、『江藤は笑止…』という言葉を使ったのでしょう。

その代わり大久保は他の者(※佐賀の乱で処刑された者たち)に対しては『立派』という表現を使っています。
つまり、江藤は笑いものであるが他のものは立派…。相対的に江藤の地位を貶めたいという意図がうかがえます。

ある意味、政敵は骨の髄まで憎い!という彼の気持ちからだと思います。
かつてのNHK大河ドラマで『葵徳川三代』がありました。この中で関ヶ原の合戦に敗れた石田三成が徳川家康に会うシーンがありますが、家康は三成を丁重に扱っています。
既に勝負が決した後は、“人としての尊厳”を出したのでしょう。
これが史実かドラマ上の脚本かは知りませんが、日本人の心には響くシーンでした。



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Posted by タピタピ  at 07:23 │Comments(0)歴史観

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